
忘れていくことは、乗り越えられるのか。
Ezofrogsで深まった“個人の記憶をアーカイブする”挑戦
一色 潤
Isshiki Megumu
北海道大学 3年生(2025年当時)
出身地:兵庫県・神戸
テーマ:「忘れずにいたい記憶」を、生成AIを使ってアートとして残す「MonoGraphy(モノグラフィー)」
「人の記憶って、どうやったら残せるんだろう。」
一色潤さんがEzofrogsで向き合っていたのは、そんな問いでした。
写真や動画では残しきれない、そのときの感情や身体感覚、心の中に浮かぶ原風景。
時間が経つほど薄れていってしまう“個人の記憶”を、テクノロジーでアーカイブできないか。
もともと制作活動ものづくりが好きで、ずっと手を動かしてきた一色さん。
けれど、ただ便利なものを作るだけではなく、人の心を動かす表現をやりたいという思いがあったそうです。
そんな自分の問いと、本気で向き合う場として飛び込んだのがEzofrogsでした。
つくることは、ずっと自分の衝動だった。
ーーなぜその学校・学部を選びましたか?
高専から北海道大学・工学部に編入しました。もともと、小学4〜6年生くらいの頃には、もう「高専に行きたい」と思っていた気がします。単純に、ものを作れるのって格好良いなと思っていたんです。機械も好きだし、情報も好きだし、その両方に触れられるのが面白かった。最初は機械工学科にいて、今は情報系にいます。
ーーもともと、ものづくりが好きだったんですね。
そうですね。かなり昔から好きでした。
高専に入ってからもそれは変わらなくて、自分で何か作ったり、アイデアを形にしたりして、周りの人が驚いてくれたり、面白がってくれたりするのが一番楽しかったです。なんというか、アーティストが曲を作るのに近い感覚かもしれないです。生きる衝動を抑えられず、それを制作によって昇華するみたいな感じで、作らずにはいられないんですよね。
ーー当時は、将来どんな道に進みたいと思っていましたか?
最初はエンジニアになりたいと思っていました。
でも、15歳くらいの頃には、研究者になりたいとも言っていた気がします。落合陽一さんにも憧れていました。研究者でありながら、アーティストや起業家としても活動していて、その生き方が格好良いなと思っていて。
聴覚障害のある方とも一緒に音楽を楽しむ方法として考えられた「SOUND HUG(サウンドハグ)」というプロダクトのドキュメンタリーを見たときも衝撃でした。聴覚障害のある方とも一緒に音楽を体験できるようにしたもので、テクノロジーを単なる商売道具にせず、誰かの"できない"を"できる"に変えるイノベーションを起こしている。そこに強く惹かれたんです。
ーー北海道大学を選んだ理由は何だったのでしょうか?
HCI(Human-Computer Interaction)に関心を持ったのが大きいです。
人とコンピュータがどう関わり合うかをデザイン・研究する学問なんですが、文系・理系問わず分野横断的な知識が必要で、最終的には"人のことをどれだけ考えられるか"が問われる分野だと思っています。
HCIを研究できる大学を探していく中で、北海道大学のHCI研究室の雰囲気やスタイルに惹かれました。早い段階から研究活動に取り組みたいという思いもあって、ここでやろうと決めました。
ーーEzofrogsを知ったきっかけは?
北海道に来たタイミングで、活動の基盤がちょうどなくなっていたんです。
もともと、自分は何かを作り続けたい性格ではあったので、そのための環境はずっと探していました。そんなときに、大学内に掲示していたポスターでEzofrogsを知りました。
ーー最初に聞いたとき、どんな印象でしたか?
関西で「AKATSUKIプロジェクト」 採択事業である「関西テック・クリエイター・チャレンジ CAコース」に「瞬間憑依できる植物アバタ Tele-Plant」というプロジェクトで採択いただいていました。Ezofrogsも同じくAKATSUKIの採択事業だったので「こういう感じのプログラムなら、自分と相性いいかもな」となんとなくイメージは持っていました。
ーー最終選考はどうでしたか?
難しかったですね。特に、自分より若い参加者と話すのが結構難しくて。普段はあまり関わらない年代や分野の人たちだったので、慎重に言葉を選ぶようにしていました。あまり強く言いすぎず、誰にでも伝わる言葉で話すことを意識していました。
ーー応募を決めるまでに迷いはありましたか?
あんまりなかったです。別のプログラムへの応募も考えていたんですけど、条件的に応募できなくて。じゃあ何に参加するかとなったときに、「作れる」「人と会える」「ちゃんとしてる」という意味で、Ezofrogsが一番自然でした。
もともと、やりたいことが明確にあったことも大きいと思います。
「何か面白そうだから入る」というより、「これをやるためにきっと活用できる場だな」と思えたんですよね。だから、挑戦というより、必要な環境に入りにいった感覚のほうが近いかもしれません。
「忘れずにいたい記憶」をどう残せるか。
ーーEzofrogsではどんな課題解決に取り組みましたか?
個人の記憶を、テクノロジーでどうアーカイブできるか、というテーマに取り組んでいました。
ーー個人の記憶にフォーカスしたのはなぜですか?
これは昔からずっとやりたかったテーマなんです。
神戸にいた時から頭の中にはあったんですけど、当時の技術では取り組むのが難しくて。北大に入って10人ほど一緒に創作できる仲間をつくって、北大祭で5作品くらい展示したことがあったんですが、その中で一番反応が良かったのが、このテーマに関する作品だったんです。「お金を払ってでも欲しい」と言ってくれる人もいて、これは可能性があるなと思いました。
ーーどんなサービスやプロダクトを作りましたか?
「MonoGraphy(モノグラフィー)」 というプロダクトです。
「忘れずにいたい記憶」を、生成AIを使ってアートとして残す、というものですね。AIと対話しながら、その記憶に紐づく身体感覚とか、うまく言葉にしきれない感情とかメタファーを掘っていって、それを抽象的なオブジェの形にしていく。
流れとしては、まず残したい記憶をどんな言葉で表せるか一緒に考えて、そのあとAIとやりとりしながら記憶を深掘りしていく。そこからデザイン案をつくって、3Dモデルにして、最終的にはカードレターとかアクセサリー、アートオブジェみたいな形で手元に届ける、というプロセスです。
自分としては、写真とか映像では残らないものにずっと関心があって、その人の中に残っている感覚とか、思い出したときに立ち上がる心のイメージ・原風景みたいなものを残したい。MonoGraphyは、その関心を今の形でプロダクトにしたものだと思っています。
ーーそのテーマに、そこまで惹かれるのはなぜだと思いますか?
最近は、人間の死をどうやったら乗り越えられるのか、みたいなことを考えています。
記憶って薄れていくし、人もいなくなる。そのときに、テクノロジーで何ができるんだろう、って。
坂本龍一さんの最後のピアノソロコンサート作品『Opus』を聴いたときも、それをすごく思いました。その中で演奏されていた「Aqua」という曲が、娘さんのために書かれた曲だと知って、亡くなる前の最後の演奏に、子どものために作った曲を選んだんだな、とハッとさせられたり。
そう考えると、作品ってただの記録じゃなくて、その人が最後まで何を残したかったのかまで含んでいるんだなと感じました。
自分はたぶん、そういう“消えていくけど確かにあったもの”にずっと惹かれているんだと思います。
ーーどんな社会になったらいいと思いますか?
その時々で考えていることは変わるんですけど、今は、記憶とか死とか、そういう簡単には扱えないものに対して、ちゃんと向き合える社会がいいなと思っています。
便利さとか効率だけじゃなくて、人間の中にある曖昧で、でも大事なものを、雑に扱わない社会というか。
テクノロジーって、もっとそういう領域にも使えるはずだと思っています。
評価軸が違っても、手放したくない美意識。
ーー一番大変だったことは?
いわゆる「これが大きな壁でした」という感じは、あまりないかもしれないです。
ただ、ずっと忙しかったですね。常に何かに追われていて、ずっと同じペースでしんどかった。
でも、それがダメージになったかというと、あまりそうでもなくて。たぶん自分にとっては、ある意味通常運転なんですよね。もともとそういうテンションでやってきたので。
ーー人生の中でもしんどい時期でしたか?
しんどくはありました。でも、人生で一番というほどではなかったです。
むしろ、自分より周りのほうが苦しかったんじゃないかな、と思います。みんなにとってはかなり負荷の高い期間だったと思うので。
壁を壁と感じていないというか、忙しいとか苦しいとかは前提として受け入れていたから、挫折などは感じていないです。
ーーそのとき、どんな気持ちでしたか?
「今まで活動していたフィールドが違うな」という感覚があり、それが大変だと思っていました
自分はこれまで研究とかものづくりのフィールドでやってきたんですけど、Ezofrogsで触れるのは、もっとビジネス寄りの評価軸だった。研究って、お金になるかどうかではあまり評価されないんです。でも、ビジネスの世界ではそうじゃない。そこにギャップはかなりありました。
ーーどうやって立て直しましたか?
立て直すというより、途中で「合わせにいくのはやめよう」と思いました。
周りの大人たちが求めている人物像に、自分がうまく当てはまっていない感覚はありました。
それで一回、周りが求めるキャラをデザインしようかと思ったんですよ。でも、それって自分のポリシーに反するし、美意識として違うなと思って、やめました。だったら、自分は自分のまま行くしかないな、と。そこは結構大きかったです。
ーー印象に残っているフィードバックや言葉は?
言葉というより、生き様が格好良い人が多かったのが印象に残っています。
海外研修で会った人たちもそうだし、エストニアやフィンランドで出会った人たちの姿勢とか、仕事の仕方とか。研修で会った料理人の方もそうだったし、アテンドしてくれた人もそうでした。「こういうふうに生きている人がいるんだ」ということ自体がかなり印象的でした。
ーー「ここが転機だった」と思う出来事は?
明確に一点あるというより、海外で見た景色はかなり大きかったです。
大学の設備一つ取っても、日本の大学と比べたときに、海外のほうが圧倒的に環境が整っていると感じた場面があったんです。そこで、日本の経済の衰退って、こういうところに表れるのかもしれないな、とショックを受けました。
同時に「生まれた国が違うだけで、若者への支援の質ってこんなに変わるんだ」とも思いました。そこから、世界を基準に物事を見る視点がかなり強くなったと思います。
きれいごとじゃない現実の中で、それでも自分で選ぶ。
ーー活動を通してお世話になった人はいますか?
大きく二つあって、一つは大湊さんですね。相談に乗ってくれたことはすごく覚えています。
もう一つは、札幌で活動する中で出会った人たちです。NoMaps(札幌を拠点にテクノロジーやアート、街づくりなど多様な分野を横断するイベント)の方々に機会をいただいて、「まだ名前のない世界」と題してNoMaps 2025で作品を展示させてもらったんです。会期中には約100名以上の方にご来場いただき、今後の活動の大きな励みとなりました。展示の外でもサポートしてくれる人がいて、それはすごくありがたかったです。
ーーこの経験を通して、新しく見えたことは?
挑戦って、きれいごとじゃないんだな、ということです。
良い人もいるし、誠実じゃない大人もいる。支援の場にも偏りはあるし、努力したから報われるとも限らない。でも、そういうものを見たうえで、それでも何を選ぶかは自分だと思うんです。そこを誰かに委ねすぎるのは違うな、と強く思いました。
ーー世界を見る視点は変わりましたか?
かなり変わりました。
北海道とか東京とか日本の中だけで比べるんじゃなくて、もっとグローバルで見たときに、自分たちの置かれている環境を考えるようになりました。
同時に、Ezofrogsみたいな取り組みには、札幌からイノベーションを起こせるポテンシャルがあるとも思いました。民間、行政、大学がちゃんとつながれば、まだできることはたくさんあるはずだなって。
今は特に、ものづくりをしたい若い人が使えるスペースとか、外とつながる場がもっと必要だと感じています。
ーー参加を迷っている人にメッセージをお願いします!
周りを見ていて、自分の人生をかなり犠牲にして挑んでいるように見える人もいたんですよ。
もちろん、それで得るものもあると思います。でも、たくさん時間をかけたのに、何も結果が出ないリスクもある。それって意外と認知されていないんじゃないか、と思っています。
だから、無責任に「絶対やったほうがいい」とは言いたくないです。
ただ、そういうリスクも込みで、それでも何かやりたくてしょうがない人は、やっていいと思います。
あと、「厳しい環境に身を置かないと成長できない」とか、「不条理な環境を選ばないのは逃げだ」とか、そういう考え方はあまり信じなくていいと思っています。温室みたいに見える環境でも、ちゃんと良い人間性は育つし、良い人材にもなれる。そこはもっとフェアに見ていい。
大事なのは、自分の人生の主体をちゃんと自分で持つことだと思います。Ezofrogsに限らず、どんな場に入るとしても、それだけは忘れないほうがいいです。